2009年6月29日
何年ぶりかで、超~懐かしい店内の姿を拝ませていただきました。
中の書棚はほとんどそのまま残っているんですね~。(残置か・・)
あの辺はスポーツ雑誌が並んでたなー、と、立ち読みしているワタクシの姿を思い浮かべて感慨に耽ってしまいました。
いや、ちゃんと買ってましたよ、テニスジャーナルとかTTとかテニスクラシックとかテニスマガジンとか。
そしてエドバーグのバックハンドやレンドルのサーブを頭に叩き込んで、まだ東葉高速の橋脚がなかった頃の西習志野3丁目の崖の下の公園で体に憶え込ませていたものです。
おっと話が・・・小学生のころ、まだ珍しかったシャープペンシルをはじめて買ったのもここの2階でした。
受験の頃もあまり勉強しなかったけど、一応参考書など買いました。
今にして思えば、博文堂は昔ながらの本屋さんでしたが、御幸はちょっとおしゃれな感じがありましたね。
幅の広いアールのついた階段がその象徴かも知れません。
博文堂の階段は狭くてやや急でしたからね。
でも博文堂は定期購読すると自宅まで届けてくれたので、テニクラを届けてもらっちゃってました。
いまやAmazonをはじめとしたネット通販で、自宅に届くのは当たり前、しかも圧倒的な品揃えであるわけですが、津田沼や船橋に出てもあまり大きな本屋さんがなかった時代に、お届けサービスをやっていたのはとても素晴らしかったです。
おっとっと。(^^;)
博文堂は夜7時(7時半だったかも)で仕舞ってましたが、御幸は8時までやってました。これが当時は大きな差でした。
セブンイレブンが夜11時で閉店していた時代ですからね~。(^^;)
まぁ、そんな博文堂跡地もいまやすっかり白戸家が馴染んでいるわけですが、御幸の面影もついになくなるときがやって来たのかも知れません・・・。
View Comments (26)
わっ
御幸だぁ!
懐かしいです。
私、本(雑誌や漫画)は博文堂派、
文具は御幸派でした。
2階に上がるとそこそこ洒落た文具が置いてあった記憶があります^^
通りすがりのアラサーさん、コメントありがとうございます。
でしょでしょ~、懐かしいですよね~。(^o^)
前を通ったときは思わず吸い込まれそうになりました。
もうすてに本棚などは撤去され、がらんどうになっていました。でもあの階段だけはまだ健在でした。
このあとどんな店に生まれ変わるか知りませんが、きっとあの階段は面影を残すことと思います・・。
きたならパパさん、こんにちは。西白井改め白井です。御幸の階段、本当に懐かしいです(^O^)二階の文具売り場の臭いがしてきそうです。本の種類の多さは博文堂が勝ってましたね。この二件は一生忘れる事はないです。ところで、習志野台中学校のホームページの中の「地域の歩み」というコンテンツに、昭和42年当時の鮮明な航空写真が掲載されてました。真上からではなく北習駅の北西から写してる写真ですが、駅前の3棟はあるけど、商店街には西友も何も無く、当時を知る興味深い写真でしたよ。
白井さん、こんにちは。
いつもありがとうございます。
>ところで、習志野台中学校のホームページの中の「地域の歩み」というコンテンツに、昭和42年当時の鮮明な航空写真が掲載されてました。
ワタクシ、習台中出身なんです(前にも書きましたっけ)が、知りませんでした。
これすごいですねー。
ワタクシの住んでいた12街区、まだないです。
3街区、5街区、6街区は歴史が違うってことがよくわかりますね。
この頃は、買い物、生活、大変だったでしょうね。
いつも感動的な情報、ありがとうございます。
たびたびどうも。連続でのコメント失礼します。私も中一の一年間だけ習志野台中でした。二年になるとき白井に引越しました。習台中といえば…、現在、テレビやグラビア等で活躍している山本梓さんご存じですか?彼女も習志野台中学校出身です。ただ、北習のどこらへんに住んでいたのか(今でも実家はあるのか)は不明です。以前、テレビのバラエティー番組の中で津田沼の話題になった時も「あそこらへんは私の地元」と発言してましたよ。
白井さん、こんにちは。
ワタクシも中2で12街区から西習志野に引っ越しています。が、七林中はできたてだったので、クラスメートとわかれずに済み、そのまま卒業できました。
山本梓さん、スレンダーな美女ですね。
習台中だったんだぁ。ちょっとうれしいかも。
きたなら周辺だと、さとう珠緒さんが高郷小、山下智久さんと市井沙耶香さんが高根台中出身だったりしますね。
新京成では、倉木麻衣さんが前原中、そして電車男・伊藤淳史さんが御滝中出身というところは知っています。
そういえば、ホリさんが白井出身だったかと思います~。
例の「新京成CiaO」の最新号が出てましたよ。今回は 京成千葉線直通運転のヒミツ公開 です。
白井さん
いつも貴重な情報、ありがとうございます。
このところ忙しくて、ビアーレきたなら商店会の七夕祭りなどあったんですが、ブログ更新できていませんでした。
子供の頃、京成津田沼駅のホームから、千葉方面につづく線路を見て、なぜ使わないのか不思議に思った記憶があります。昔は九十九里号という季節列車を走らせていた時期もあったみたいですが当時は知らなかったので。
「新京成CiaO」もらってきます。
たびたびどうもです。本屋で発見したのですが、朝日新聞から発刊されてる雑誌で「週間昭和」というのがあります。34頁までしかなく、A4変型の最近よくある薄くて大きい雑誌です。7/21発売の34号は昭和53年特集で、キャンディーズ解散や成田空港開港や江川の空白の一日などの特集と共に、拡大する郊外という記事(P20)で当時の津田沼サンペデックとその前の広場の写真がデカデカと掲載されてます。サンペデック南側の畑からサンペデック方向を写した写真もあり、昭和50年代に入り、津田沼は「東の吉祥寺」を合言葉に街づくりが始まった。という紹介文があります。
「週間昭和」ですか。白井さん、多彩ですね。
あ、わかった。デアゴスティーニが出している分冊百科とおなじようなものですね。毎号600円くらいで、全部買えば「昭和」の百科事典になるけど、好きな年だけ買えるメリットがありますね。
東の吉祥寺かぁ・・。
でも言われてみればそういう要素は感じられましたね。PARCOと、丸井がありましたから。
ミーナとモリシアが有名になって、南口の開発がさらにすすめばいまでもいけるかも知れませんね。
・・・新京成が井の頭線役だぁ。(^o^;)