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御幸台

船橋の歴史関係の資料を読んでいると、習志野台はかつて御幸台と呼ばれていた、という一文を目にすることがあるかと思います。

するとワタクシを含め多くの歴史の素人は、現在の習志野台1丁目から8丁目、もしかしたら東習志野あたりまで拡がる広い台地を思い浮かべ、その全体が御幸台と呼ばれていたんだろうなぁ、と思うと思います。

だって大和田原(ん~八千代のイメージ)だったこのエリアを、習志野原と命名されたのが明治天皇だっていうんで。
戦前の天皇は神格化されていたのは有名なお話で(そういや八千代っていう地名も神っぽい)、その神であらせられるところの天皇様がおっしゃられたわけですから、も全部でしょ!、と。

でも実際には、そんなでかい話ではなかったかも知れない、ということに気づいたんです。

御幸台の範囲

きっかけは桑納川の源流が薬円台公園付近かもしれないということで、国土地理院の古い地図を確認して見ようと思い立ったことでした。

すると、昭和7年発行の1/25000地理院地図に御幸台の文字を発見!

国土地理院より 地理院地図 昭和7年(1932年)

習志野原のほとんどが御幸台かと思いきや、周辺を藥園臺、正伯台、西台、東台、柳台、二宮台に囲まれ、さらに北にある七林台、坪井台、本郷台、高根台、豊富台あたりまでを含めて現在の習志野台になる、ということがわかりました。

Wikiで調べてみると、明治天皇駐蹕之処の碑の項目で、石碑が元々建っていた「習志野台四丁目59番付近」が御幸台と呼ばれていた、となっていますが、どうやらそこまでちっちゃい範囲ではなかったようです。

御幸台考察 – Google Mapに範囲を描いてみた

昭和7年の地図を見ながら、現在の地図に御幸台の範囲を描いてみました。
赤い線は等高線、おそらく標高30mライン。青い線は当時の道を表しています。

御幸台は習志野台5丁目のマックスバリュやENEOSがある一角からせいぜい広く見積もっても船橋市郷土資料館のあるあたりまで、ということになります。
この広い場合というのは等高線の範囲、と定義した場合で、道や川、谷などでも町は区切られると定義すれば、実籾街道の延長線上の道でぶった切られているようにも思えますので、その場合は4丁目はほとんど含まれないことになります。

さて、どっち?

ここで再度昭和7年の地図を見返してみると、本郷台、高根台、豊富台については道をまたいで拡がっていることがわかります。

ということで、この時代のこの地においては、おそらく町名というよりは、範囲を示す意味でほにゃにゃら台が使われていたのだろうと考えます。

あとでわかったことですが、地図の北のほうに古和釜木戸と記載されていますが、これも住所ではなく、エリア名であったようです。

ま、果樹園か田畑か樹林ばかりで、ほぼほぼ人は住んでいないようですし。
住所を細かく割り振る必要もなかったのでしょう。
藥園臺(やくえんだい、おおぉ全部当用漢字外だ~)から西は街になりますが。

御幸台と呼ばれていた期間

国土地理院より 地理院地図 昭和29年(1954年)

昭和29年になると、軍用鉄道は新京成電鉄になり、薬園台には学校ができ、習志野原は谷の部分を除いて区画が整理されています。

この頃は習志野原のうち佐倉街道より北側を北習志野、南側を習志野と呼んでいたんですね。
この時点で御幸台の文字は消え失せています。

国土地理院より 地理院地図 大正14年(1925年)

一方、さらに古い大正14年の地図にも御幸台を含むほにゃにゃら台の記載はありませんでした。

よって、御幸台は大正14年の地図を測図した大正10年以降、昭和29年の地図作成の調査を実施した昭和27年までのあいだの一定期間だけ呼ばれていた、エリアを示すための名称、ということになります。

御幸台のお話はここまで。
このあとは余談です。

習志野演習場

戦前、「陸軍演習場」となっていた場所が昭和29年の地図では「旧習志野演習場」になっている。
戦後、民間にこの地を解放しようという動きがあったんでしょうか。
演習場の東側は高津団地ですから、もし解放されていたら、ここも団地群になっていたでしょうね。

でも、昭和44年の地図では皆さんご存知の「陸上自衛隊習志野演習場」になりました。

国土地理院より 地理院地図 昭和44年(1969年)

佐倉街道も馴染みの成田街道になりました。

坪井谷の一部は埋め立てられ、フラットな街に変わっています。

西習志野はまだなく、飯山満川の谷津田、桑納川の谷津田は昭和44年時点では健在です。

高根台

昭和7年の地図でいうところの高根台は軍用鉄道をまたいでいましたが、昭和29年発行の地図になると、高根台は線路の西側だけになり、東側は高郷にかわっています。
え、高郷西側じゃなくて?、高根台東側じゃなくて?、と思っちゃいますが。

さらに昭和44年の地図では高郷もろとも習志野台一丁目になり、高根台の名は消えたと見せかけて現在の高根台団地の場所にお引越し。
そして古和釜木戸の一部と豊富台が高根台町に変わっていきます。

後退を余儀なくされた古和釜木戸はほどなく松が丘に変わり、消滅します。
もっとも、道路交通のために木戸は早々に消滅、宅地開発により野馬土手も追って消え行く運命でしたのでしかたのないところではあります。

さらにその後、習志野台一丁目のうち線路より西側は、高郷小学校もある現在の西習志野へと変わっていきます。

高郷は高郷小学校、御幸は(かつて本屋の御幸もありましたね~)いまは町会の名前として名残を残していますが、高根台はむしろ成り上がりですよね。

高根台はエリア名的な扱いから、場所を変えて地名となり生き残った運の強い名前と言えるのではないでしょうか。

 

きたならぱぱ:

View Comments (12)

  • きたならぱぱさん、ご無沙汰しております。白井です。
    大変興味深い記事、拝読させていただきました。
    きたならぱぱさんが、現在の地図に当時の御幸台を重ね合わせた画像にもありますが、現在の9号公園の左下にも『みゆき町会会館』の文字がありますね。4丁目のあそこらへんの『みゆき町』とは『御幸台』から取った名称だそうですね。船橋市のホームページの、習志野原を解説している箇所に書いてありました。
    ところで今は無き本屋、『御幸』の名称はどこから来るんだろう?

    • 白井さん、こんにちは。
      お久しぶりです!

      当時、高台ごとに地域名としてほにゃらら台という呼び名を付けていった説を裏付けるかのように、みゆき町会会館、御幸台のど真ん中に建てられていますよね!

      本屋の御幸もぜーったいここから名前を採ったに違いない!と思います。
      習志野台に2店舗を構えるくらい、店主はこの街を愛していたんだと思います。

      あともうひとつ、みゆきタクシー、というタクシー会社もありました。
      確か、習志野駅とNTT薬園台局の間あたり、たぶんスズキのお向かいさんあたりに車庫があったと思います。ストリートビューでみたら今はマンションになってますけど。
      マンションを調べたら、北習志野セントラルハイツ、2000年竣工ということなので、20年前になくなったか、移転して結局なくなった、ということかと思われます。
      電話かけてタクシー呼んだとかで記憶している人、いるんじゃないかなぁ。

  • たびたび失礼します。
    みゆきタクシー!懐かしい!何十年振りにその名を聞きました。^_^

    私の習ニ小時代の恩師が4丁目に住んでいるので、先ほどLINEしたら、やはり御幸台の事は知っておりました。
    「ちょうどここら辺一帯の事だよ」ときたならぱぱさんの考察と同じ様な事を言っておりました。

    その先生から聞きましたが、薬円台小学校の校歌の歌詞の出だしが、「みゆき台から登る陽の、朝の光・・」というものらしいです。
    検索してみたら本当にそうでした。

    • 白井さん、こんにちは。

      何がすごいって、小学校の先生と繋がっている白井さんがすごい!
      さらにLINEで教え子とやり取りできる先生もすごい!! おそらく若くても70歳近くまでお歳を召されているのではないかと拝察いたします。

      先生がおっしゃられると真実味が増すというか、お墨付きをいただいた感じがして嬉しいですね。

      • こんばんは。
        たびたびどうもです。

        習二時代の恩師ですが、仰るとおりちょうど70歳です。
        私の担任だった頃はその先生も20代後半でした。習二で教員デビュー、船橋市市内の小学校、何校かでキャリアを重ね。習二の校長としてキャリアを終えました。
        その先生から聞いた話ですが、故藤子F不二雄氏の後を継ぎ、現在、ドラえもんを描いている、むぎわらしんたろうという漫画家は習二出身(五街区出身)です。そのむぎわら氏が『藤子F不二雄先生の背中』という自伝的漫画を出しましたが、その中で自身の子供時代を描写してるコマがあり、習志野台団地の風景が描かれています。ネットでも読めるかもしれません。

        • 白井さん、こんにちは。
          校長先生ですか。ますます箔がつきそう。
          ドラえもんの画家さん、藤子先生の愛弟子だったみたいですね。
          『藤子F不二雄先生の背中』探してみようと思います。

    • あ その歌覚えてます。
      1年生の時だけ在籍していて2000人近くなり南小へ分かれていったのでうろ覚えですが。
      一学年40人で12組とかでしたからねぇ。

  • きたならぱぱさんご無沙汰しております。
    自分も子供の頃から「みゆき」の名称エリアの認識があります。
    子供の頃の曖昧な認識ですが、習志野台のエリアごとに子供会がありまして
    自分が住む習志野台5丁目はわかば子供会でした。何か催しのミーティング等があれば10号公園に集まったものです。隣町の子供会がみゆき子供会だった気がします。まさにパパさんが赤線で囲ったエリアに住んでいた子達のエリアと子供の頃は認識してました。バス通りを真ん中に西側のエリアに住んでいた子達で、薬円台小学校と習志野台第二小が入り混じった?子供会だった気がします。ドッチボール大会があって自分が所属のわかば子供会とみゆき子供会と試合した思い出があります。みゆき町会の盆踊りが8号公園であって、よく行きました。見知らぬ子達がいたのは薬円台小学校の子達だったのか。。ちなみに自分の住む5丁目町会も今は見る影もなくなるほど狭くなってしまった5丁目公園で盆踊りを開催していました。4丁目町会ってあったのかわかりませんが、あの4,5丁目の入り混じったエリアをみゆき町会っていったのかな????

    • きょうこうさん、こんにちは。
      お久しぶりです!

      子供会レベルでの交流ってありますよね。
      隣町のお祭りも普通に行きますし。
      しかもきょうこうさんのエリアだと、同じ学校の友達が隣の町会に普通にいるでしょうから、つながりも深くなることでしょう。

      あまり気にしてませんでしたが、第二小と薬園台小って意外に近いですね~。
      その中間がまさにみゆき町会ですね。
      4丁目って習志野駅やNTT局のほうまで続いているので、全部がみゆき町会ではないでしょうけど、南半分くらいが含まれるんでしょうね。

      5丁目公園ってマックスバリュの裏の公園ですよね。マンションに土地を売って狭くなったんでしょうか? それとももともと空き地だったのかな?

  • ファミマ寺島習志野台店の上に引かれている青い線(道路)は明治のもっと前には線路があったところだそうです。
    習志野駅南側の陸軍北門あたりまで延びていたとの記録を見たことがあります。
    途中にコンクリート高架水槽がありましたから周囲の兵舎生活用水や蒸気機関車にも使っていたのかもしれません。

    もと線路跡は緩やかなカーブで進むので地図を見ているとここに線路あったよなと思うことが多いですね。

    • 帰ってきた船橋市民さん、こんにちは。

      線路ですが、もう少し西側を通っていたようですよ。


       ※ 今昔マップ on web より

      明治36年の地図を出してみると、実籾街道沿いはほとんど通っていなくて、陸上自衛隊駐屯地の中を通って習志野駅の北側の道まで行き、最後に東に折れて終点、という感じです。
      終点の先にNTT薬園台局があるのは偶然ではないでしょう。
      おそらくここに陸軍の電信設備が設置されていたので、この地に電電公社を設置して引き継いだと考えるのが自然です。

      おおぉ、コンクリート高架水槽! 見た気がします。
      習志野駅の改札を出ると南側のほうにキノコみたいな物体があったかも。
      当時は習志野駅のまわりに高い建物はほとんどなく、イイダ家具と薬円台ボウルくらいだったので、空き地の100mくらい向こうに見えていたと思います。
      そんなに綺麗なものではなかったはずですが、いまワタクシの頭の中では宮崎駿の描く世界みたいにきらきらしています。

  • きっとそれで、昔存在した、”御幸文具店”ってのがあったのね~。