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昔日の新京成

ワタクシがはじめて新京成に乗ったのは、小学校2年生の頃、おそらく昭和46年(1971年)だと思います。
その当時は北習志野~京成津田沼の範囲しか乗車していませんでしたが、印象深く心に残っています。
習志野駅脇のイイダ家具を過ぎると見えてくる、畑の向こうの薬円台ボウル。
以前は薬園台の駅は踏切の南側でしたね。
薬園台を過ぎると鉄橋が楽しみで、前原を過ぎると木造4階建のこげ茶のあやしい建物に釘付け。
それを過ぎると大きなカーブを描いて車輪を軋ませながら新津田沼にへたり込む。
・・あの木造なのに4階建の建物、なんだったかご存知の方はおられるでしょうか。
当時、今は亡き親父に聞いたら軍だとか自衛隊だとか言ってましたが・・。
いつか歩いて見に行ってやる、と子供ながらに思いましたが実現しないうちになくなってしまいました。
地図を見ると、たぶん前原東4-1のマンションが建っているあたりだったかと思います。
その頃の新京成の電車は京成払い下げの100形とか200形に改良を施した車両を使っていました。
おでこに大き目の丸いライトをひとつ付け、人がめくる行き先表示板を名札のように付けていました。

強烈なのは、モーター音がすごく唸るんです。
現在の電子制御のパルスモーターとは大違いの、超アナログな大型単発モーターといった感じ。
うぅうー(200Hzくらい?)からスタートして音程を上げながら加速し、40秒ほどでうーっ!!(500Hzくらい?)っと唸りを上げると、ふっとモーター音がなくなり、あとは惰性でカタンカタンコトン、カタンコトンコトンと走るわけです。
そのおんぼろ感が子供のワタクシには心地良かったです。
おんぼろ感といえば、新津田沼-京成津田沼間で発生することが多かったのですが、カーブで電車が左右に揺れると、吊革が網棚にカン!カン!当たってたんです。これは恐怖感とかではなく、カルチャーショックっぽい感じでした。
この現象は大人になってもたま~に発生してましたんで、いつか録音してやろう、と思っていましたが、これも実現せず、です。
一度デンスケを持って乗ったことはあったんですが、そのときはカンカン言ってくれませんでした。
さて、小学校も高学年くらいになると、たまには松戸方面にも出かける機会がありました。
両親に高根公団の商店街、初富の梨狩り、五香~常盤平の花見などに連れていってもらいました。
上りは高根公団止まりと鎌ヶ谷大仏止まりが7割くらいで、くぬぎ山行きや松戸行きは少なかったです。
当時初富から先は単線でしたから、そういう運行だったのでしょう。
いまは9割以上が松戸行きで、車両の進化もあって30分くらいで松戸まで行けますが、当時は運よく松戸行きが来ても45分、接続が悪いと1時間かかっていましたので、松戸は遠いと感じていました。
下りも新津田沼止まりが今より多かったですね。だいたい半分が京成津田沼まで行く感じでした。
松戸方面では、初富-北初富間にも大きなカーブがあって、それを過ぎると鉄橋があって、下を単線の線路が走っている。これも興味深かったですね。そう、東武野田線です。
いまはどちらも複線化され、北総線も通り、新鎌ヶ谷駅ができて乗り換えができるようになり、周囲に街もできつつありますが、当時は農村のはずれのような印象だっただけに、時代の移り変わりを感じますね。
そういえば高学年の頃だったと思いますが、北総線が北初富-小室
間で暫定開通して、北初富から新京成に乗り入れて松戸まで行ってたことがありました。八柱に武蔵野線が開通したのもこのころだったかな。
それでも儲かってる新京成、なんだかすごい電車です。
#勘違い、思い違い、記憶違いもあるかと思います。当時をご存知の方がご覧になられましたら、ぜひとも補足・訂正などコメントいただけますよう。m(__)m

2012年6月21日追記:

たまたまYouTubeを見ていたら、旧国鉄時代の横浜線73系の音源を見つけました。
このモーター音が新京成100形に似ているので、ご紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=HaB1e6LVXyg

 

2016年10月8日追記:
小島 明さんより、国際製粉 千葉工場の写真をご提供いただきました。
新しい記事「国際製粉 千葉工場」に掲載しましたので、ぜひご覧ください!

 

2024年7月23日追記:

たまたまYouTubeを見ていたら、まさに新京成200系の先頭車両から見た進行映像を見つけました。
この時代に新京成に乗った方は、ぜひご覧いただきたくご紹介します。

きたならぱぱ:

View Comments (29)

  • 吊革が網棚にカン!カン!当たってました!!
    そうでしたそうでした。モーター音も唸ってましたね。
    懐かしいです。
    でもよく憶えてますね。
    私の場合は転勤で離れていた期間が長いからかも知れませんが・・あまり憶えてないです。
    言われれば思い出すような感じで、でも楽しく読ませていただきました。
    また寄らせていただきます。

  • 薬園台の住人さん、こんにちは。
    なんか、子供心に強く響いたんですよ。
    逆に小1まで東京に住んでたからかも知れません。
    中央線って、東中野くらいまでほとんどまっすぐ直線的に走ってますからねー。
    新京成のくねくね度には、遊園地的楽しさを感じていた気がします。(^^)

  • こんばんは、
    前原駅近くの4階建ては、製粉工場だと思います。
    私が、小学生時代の40年頃は、前原駅の次に藤崎台駅があって、そこから、二つに分かれていました。新津田沼方面と京成津田沼方面行きがありました。

  • 4階だてのお城のような建物は、製粉工場だと思いますよ。前原駅と新津田沼駅の中間に藤崎台駅があって、そこから線路が2っにわかれていましたよ。一つは、新津田沼駅方面行きともう1つは、京成津田沼駅方面です。
    今のイオン津田沼店の裏あたりに線路があって京成津田沼に結ばれていました。前の新津田沼駅は、津田沼ファミリーレーンのあたりでしたね。

  • 元二宮の住人さん、情報ありがとうございます。
    製粉工場ですか~。
    親父から軍だとか聞いていたので、兵器でも作る秘密の工場なのかと想像を膨らませていました。
    ずいぶん落差のあるお答えで、ちょっと驚きです。
    勤め人になった昭和58年ごろはまだ建っていたような気がします。
    前原を過ぎると線路が分かれていたという話は、本で読んだことがあります。
    津田沼ファミリーレーンのあたりに駅があったら、乗換えが便利ですよね。
    いまからでも移設してくれないかな~。

  • 製粉工場について補足します。戦後の食料不足を救済する目的で、米国からの輸入分を含む大量の小麦をすみやかに加工するべく、当時、全国的に多くの製粉会社が現れました。前原のものは昭和22年に建設された国際製粉千葉工場で、社会が落ち着いて米の生産が回復したためか、昭和31年には操業を停止しています。その後、実に22年間、廃屋然とした姿を地元はもとより新京成の乗客たちの目に焼きつけてきたのは、多くの方が
    思い出に語っておられるとおりです。取り壊された理由は、マンション建設のための更地化でした。

  • こまろさん、こんにちは。
    とても詳しい解説、ありがとうございます。
    国際製粉千葉工場・・・わずか9年しか稼動していなかった工場だったんですね~。
    でも、戦後の復興に一役買っていたであろう、誇り高き要塞だったという点で、持っていたイメージと少し重なった感じがして、なんだか嬉しいです。

  • はじめまして。突然のコメント失礼します。
    話題の製粉工場の近所に住んでいました。
    私は昭和48年生まれで、製粉工場の記憶ほとんど無いのですが、子供心にとてもインパクトのある建物でした。
    きたならぱぱさんは私より鮮明に建物のことをご記憶で、羨ましく思います。
    ブログ記事を拝読しているうちに、新京成の車両や線路端の景色などが次々に懐かしく思い出されました。
    ありがとうございます。
    私は大きな黒いお城のようなイメージしか覚えていないのですが(実際、当時の子供たちにはお化け屋敷と呼ばれてました。)、大人になってふと思い出したとき、工場にしては変わったフォルムだったなーと気になって、最近になって調べてみたところ、こちらのブログにたどり着きました。
    専門家ではないのですが、ここ数年は趣味で明治~昭和の建築物に興味を持つようになり、もし今見ることができたら、木造4階建ての工場はかなり見応えのある建築物だったのでは…?と、記憶が乏しいことを大変悔しく感じます。
    最も、今だったら住宅地に年季の入った廃工場なんて、立入禁止か早々に取り壊しですよね。
    こうして皆さんの記憶に残ったのも、長らく廃屋のまま残っていたからこそでしょうか。
    当時は、工場敷地内の広場で野球をやったり、肝試しに工場内を(もちろんコッソリ)探検したりと、けっこう自由に子供たちが出入りしていました。
    幼い私も、新京成の線路敷地内の草むらでおままごとをしたりと、今よりのんびりした時代だったなぁと思います。
    懐かしさのあまり、つい長文になってしまい申し訳ありません。

  • しおさん、こんにちは。
    ワタクシも、少年時代の間近まで見に行こう作戦が不発に終わりましたので、電車の窓越しに見た記憶しかないんですが、それでも意識して見てしまうくらい存在感のある建物でした。
    つたない記憶では、木造での強度を確保するためか、3階4階部分は少しすぼまっていたように思います。また、ところどころガラス窓がはまっていたのは憶えています。
    戦中戦後の木造の定番かと思いますが、雨水による腐敗を防ぐこげ茶色の防腐剤で塗装しただけの外観でした。
    屋根は・・・いまひとつ思い出せないんですが、瓦とかトタンではなく、やはり木で作られていたような気がします。
    新京成の線路敷地内の草むらでおままごと、ですか~。(^^;)
    でも確かに、いまと違ってけっこう気軽に入れる隙間がありましたよね。
    沿線住民が勝手に耕して畑にしたり、花を植えたりなんかして。
    「自己責任」ではないですが、電車の騒音と引き換えにちょっと利用させてもらい、といって電車にはねられたりするようなへまはせずにうまく住み分けてたようないい時代ですね。
    今はルールでがんじがらめになってしまって、日本人らしいバランス感覚が失われてしまったようで、残念です。

  • きたならぱぱ様、1ヶ月ぶりの こまろです。
    しおさんのコメントを見て、なつかしの製粉工場ワールドを存分に味わっていただきたく、耳寄り
    なサイトを紹介します。以前、私も投稿したご当地ものですが、下記のURLの176以降に、製粉工場の話題がちらほら出てきます。いかに黒い廃屋
    が多くの人に愛されていたかがお分かりになるはずです。
    http://mimizun.com/machi/machi/kanto/1173051422.html