旧北習志野駅の駅舎がついに解体され、新駅舎の壁が見えてきました。
それとともに、東口南大階段の屋根が取り払われ、昔の面影を覗かせています。
以前はこの写真のように、階段に屋根はなくて、手すりの赤い鋼鉄部分はセメントが塗られていました。
階段の下の店もありませんでした。
歩道橋もありませんでしたし、バス停の位置も、駅前ロータリーの形状も違っていました。
駅前ロータリーが変更され、一般車用のレーンができた頃だと思いますが、下の写真のように、屋根がつけられました。
ここはワタクシにとって思い出の地。
中学3年の春、上の写真のようにうららかな晴天のとある日に、この階段で
「二段降り」を編み出しました。
「二段降り」というのは階段を1段ずつ飛ばして駆け降りることです。
昭和52年当時、そんなせわしないことをしている人はいませんでしたので、おそらくワタクシが最初です。
この階段、段差がやや小幅で、1段ずつ降りていると時間がかかるんですね。
体が成長してきて、体力もあり余っている若造は、そこで考えたわけです。
「登るときは1段飛ばし、中には2段飛ばしで駆け上がる人もいるというのに、
降りるときは1段ずつ。 降りる時だって、やればできるんじゃないか?」
この日はクラスの同じ班の子から班日記を受け取る約束で、駅で待ち合わせていました。
たぶん日曜日。当時、土曜日は学校、ありましたよね。半日。
余談ですが、昭和52年には七林中・芝山中が開校、わが習台中からそちらに移った子もいましたが、3年生は希望次第で移らなくてもよい、ということで、当然誰も移りませんでした。
そんなことで、西習志野1丁目・高根木戸駅すぐのところに住んでいる子も習台中に通って
いましたので、中間にある駅で待ち合わせた、というわけです。
ところがその子が遅刻。
当時はケータイなんてありませんから。「来るまで待つ」が基本です。
暇を持て余したワタクシ、先ほどの考えを実行に移しました。
・・たぶん、30分程度で満足の行く動きを体得しました。
でもその子はまだ来ない。
で、調子に乗って「三段降り」にも挑戦。
・・できませんでした。
三段降りになると、足の感覚だけで降りることが困難になります。
どうしても着地すべき段を目で捉え、そこに重心が行くように体の動きをコントロールする
必要が出てきます。
そのため、スローモーションのように降りることならできますが、
すばやく降りるためには、かなりの動体視力が必要になります。
こりゃ転げ落ちて怪我するな、と判断し、断念しました。
それより二段降りを磨いたほうが、現実的に素速く降りられます。
でその子、1時間遅れて到着。
班ノートとともに、松葉杖を持って現れました。
約束の直前に怪我して病院に行き、戻ってうちに電話したけど、ワタクシは出たあとだった、
とのこと。
ワタクシが悪いわけじゃないけど、ノート1冊のために怪我を押して出てきてくれたわけで、
なんか悪い気がして、とても「2段降り」完成を自慢できる空気ではありませんでした。
でも、この日のまとまった練習のおかげで、その後転げ落ちることもなく、
サンダル履きでも実践できる安定性を得る基礎になったと思っています。
その後も、学校の階段などで実践することはありましたが、
「なに今の?」とたまに言われる程度で、普及しませんでした。が、
蒲田の専門学校に通うようになり、品川駅の横須賀線の階段ほか都内各所で頻繁に実践
しているうちに、できる人を見かけるようになって来ました。やはり都内は急ぐ人が
多いからなのでしょうな。
最近は歳のせいもあり、群集の先陣を切って走ることがなくなりましたので、逆に見かけなく
なりましたが、きっと急ぐ人たちの先頭にはいまも実践者がいることでしょう・・。
そんな思い出深い階段です。
なくなるのかな。それとも再利用かな。
ひっそりと見つめていきたいと思います。
コメント
きたならぱぱさん、こんにちわ。
以前もコメントさせていただきましたが、またまた北習志野駅の写真見て、懐かしさでカキコしてしまいました。
30年ちょい前ですね、そこで一時期、学生時代を過ごしていたのは。新津田沼から新京成に乗ると、もの凄いカーブでぐりんぐりん電車が揺れたのを思い出しました。
cazittoさん、こんにちは。
京成津田沼~新津田沼~前原の区間は、日本全国でも有数の急カーブ地帯ですからね。
山間部でもないのにこれだけのカーブがあるのは珍しい、と。
30年前は、右へ左へと大きく揺れてましたよね。
いまは車両が進化したおかげで、さほど揺れなくなり、吊り革につかまらなくても立っていられるくらいになりました。
カーブを通過するスピードも倍くらいになったと思います。
喜ばしいことですが・・・ちょっと寂しいです。
はじめまして、こんばんわ。
あしから来ました。
変わっていくものを見ると、寂しい気持ちになりますね・・・
今後、どうなっていくのか気になります。
突然失礼いたしました。
また遊びに来させてくださいね~
とも&じゅん さん、こんにちは。
> 変わっていくものを見ると、寂しい気持ちになりますね・・・
そうですね~。
街の発展のためには、ある程度しかたないことだとは思いますが、子供の頃の想い出は大切にしたいです。
歴史的価値のあるものまで破壊されていくのを見ると、さすがにやめて欲しいと思いますが・・。
きたならぱぱさん、こんばんわ!
ブログ読まさせてもらいましたら、懐かしい事ばかりで嬉しくなりコメさせて頂きます。
当方、15年前に会社の都合にて兵庫県西宮市に引っ越しました。
2段降り、怪我人続出で禁止の貼り紙して有った記憶が有ります。
また、階段下の売店で、母親が85年~90年頃までパートしてました。その隣は、珍来じゃなかったとおもいますが?
きたならぱぱさんの、ブログの半数位は、思い出コメが書けます。
かけ降り禁止の張り紙は確か新津田沼駅にはあったと思います。きたならで急いでもないのにそんなことやってたのは自分くらいなものだったかと。(^^;
階段の下の中華屋はもはや記憶が薄れてしまってますが、数回ラーメンや焼きそばなどを食べに入ったことがありました。
旨かったけど、ゴキがよく出ました…
約40年前に通学に使っていましたが、駅舎もそうですが線路沿いの道も様変わりしてますね。
地下鉄も通っているので、ここから日大に歩いて通学する人も殆どいないでしょう。
※線路が曲がっているのは、戦争の時に使われていた路線だったからという話があります。
40年前からするとだいぶ変わっていますね。
駅前ロータリーの形も変わりましたし、消防署のやぐらもなくなりました。
2階の出口からは回遊通路で商店街に行けますし、バスの操車場はいまは駅前ビルです。
でも学生さん、まだまだ歩いている人、います。
東葉高速線が日本一高い運賃なので、苦学生は歩いて行くのでしょう。
日本陸軍鉄道連隊試験線が新京成の原形になっているのは有名な話ですね。
その試験のための極度に曲がりくねった線路を軽やかに走り抜ける新京成の車両は日本の鉄道技術の粋を結集して製造されています。
その新京成、4月には京成に吸収合併されることが決まっていますが、そのような歴史的背景もあるため、新京成の名が存続されるかどうかに、注目が集まっています。
こんばんわ、きたならパパ様。御無沙汰しております。北習志野駅舎が解体されたのですね。ツライ!小学生時代、北習志野駅舎は、私の憧れの的でした。当時、構内踏切が主流でしたが、北習志野駅は橋上駅舎!!。都会的でした。新京成線内では、唯一の筈です。よく理由をつけて、憧れの北習市街地に遠征したのが懐かしい思い出です。