津田沼の今昔@郷土資料館

2013年6月8日
広報ふなばし6月1日号に「昔のまちへ小旅行」と題した記事が掲載されています。
広報ふなばし6月1日号
記事によると、「前原」ってかつては「まいはら」と呼んでいたそうです。
 なお、平成15年に町名呼称を「まいはら」から「まえばら」に変更しています。
まぢで? 昭和15年とかじゃなくて? 最近までまいはらっていう地名だったの?
住居表示制度で薬園台が薬円台にされちゃったのが昭和48年。
その時点でまえばらって呼んでたような気がしますが・・・住人じゃないのでわからないですね。
郷土資料館で「津田沼の今昔-写真でみる街の遷り変わり PartII」というパネル写真展が開催中とのこと。
津田沼駅と前原駅周辺の昔の写真が展示されています。
7月14日(日)まで開催しているとのことなので、見に行ってみたいところです。
そういえば、今年の確定申告で船橋税務署に行った帰りに、前原団地を通ったことを思い出しました。
かつての前原団地の面影はほとんどなくなっていて、URを中心としたマンション街にすっかり変わっていました。
路行く人もお年寄りではなく、赤ちゃんを抱っこした若奥様が中心。
記憶とぜんぜん違うので道に迷いそうになりました。
なんとなく、寂しかったなぁ。
そうそう、そのときはスマホが電池切れでスナップも撮れず、ダブルで寂しかったのでした。(^^ゞ
 

コメント

  1. @千葉人 より:

    こんばんは
    まいはら、に驚きました。
    ずっと前から駅名はまえばらでしたよね??
    地元の人に聞いてみたい。。。

  2. @千葉人さん、こんにちは。
    子供の頃、新幹線が停まる滋賀県の「米原」に発音が似ているので、電車ごっこで盛り上がっていました。
    新京成にも「まいばら」としか聞こえない発音をする車掌さんもいましたし。(^^;)
    でもそれがほんとうは「まいはら」だったとなると・・まじびっくりっす!(^^;)

  3. ヒロポン より:

    きたらなぱぱさん
    今晩は、30日(日)に船橋郷土資料館に行ってきました。我が高校時代の津田沼の写真展懐かしいでした。特にサンポーの入り口の今で、言えば
    フードコートのような
    たい焼き・焼きそば・お好み焼き・生ジュース・をよく買っては、中学時代の友達と待ち合わせては、よく食べました。
    PARCO・イトーヨーカ堂・ダイエーが無かった時代本当に懐かしかった。
    津田沼駅の伝言板写真もありました。

  4. ヒロポンさん、こんにちは。
    そうそう、生ジュースのミキサーが並んでいるのが当時おしゃれな店先の風景だったかも知れませんね!
    買い物は商店街、が当たり前だった時代に、サンポーはトレンドの発信地でしたね。今思えば。

  5. Niikido より:

    通りすがりで失礼いたします。
    296から入って津田沼駅へ向かう道に、新京成バスの「前原」=ちばレインボーバスの「前原角」というバス停がありますが、以前は車内アナウンスで「前原角」を「まいはらかど」と言っていました。今は「まえばらかど」と言っているようです。一方、新京成の方は昔から「まえばら」と言っていましたけどね。
    それと296に「前原東五丁目」という交差点がありますが、ここの標識で「前原」の下に「Maihara」とローマ字表記されていた記憶がありまして、今ストリートビューで確認したら2010年時点の写真ですが「Maihara」と表記されています。ちなみにその先の「前原駅入口」交差点では「前原駅」を「Maebara Sta.」と表記しています。現在は確認しておりませんが、依然として「Maihara」表記のままかもしれないですね。

  6. Niikidoさん、こんにちは。
    ストリートビューっ!!
    おおぉ、確認いたしましたぁ!(゚o゚;)
    交差点名を決めた時点ではここは「まいはら」だったんですね~。
    ここが前原東5丁目となったのは住居表示制度が施行された昭和48年のことでしょうから、少なくともその時点では「まいはら」だったと推測できますね!
    貴重な情報、ありがとうございます~。(^^)/
    お名前からすると、新木戸方面からバス利用のお方でしょうか?

  7. Niikido より:

    > お名前からすると、新木戸方面からバス利用のお方でしょうか?
    はい、その通りですが、東葉高速開通後はバスの利用は少なくなりましたので、先のコメントは80~90年代の記憶になります。こちらの記事を拝読して、そういえば昔、新京成とちばレインボー(かつては京成)で、同じバス停なのに、「前原」の読み方と停留所名の違いが気になっていたことを思い出しました。

  8. 京成バス(現ちばレインボーバス)のほうがバス会社としてはより古くから走っていたということかも知れませんね。
    おそらくはこの地域に宅地があまりなかった頃から・・・。

  9. 元新京成沿線住民 より:

    前原団地の写真の掲載、有り難うございます。私は杉並区上荻で生まれました。桃井踏切の近くです。しかし、私は喘息体質の為、1963年頃、前原団地に引っ越して来ました。小学校入学の直前に、二宮小学校の近くに、引っ越して来ました。前原団地の写真を拝見した時、幼少の頃、親の健在だった頃が走馬灯の如く、よみがえって来ました。今は、病床に伏してますが、あの当時の幸せだった頃を思い出しました❗本当にアリガトウ。いつまで生存出来るか、全く見当がつきません。だけど、人は遅かれ早かれ、必ず死にます。ただ、早いか遅いかの違いだけ。そのように私は割り切ってます。今迄、本当にアリガトウ。

    • きたならぱぱ より:

      元新京成沿線住民さん、こんにちは。
      上荻ですか!
      ワタクシ、その隣町の西荻北で1963年に生を受けております。同じく小児喘息を発症し、1969年に習志野台団地に移り住みました。
      してみると当時の荻窪界隈は空気が悪かったのでしょうね。
      習志野台に来てからは喘息も落ち着き、30代で再発した際、母親からあんた小さい頃は大変だったのよと聞かされるまで、自分が喘息持ちだとは思いもよらないほどでした。
      いまは犬と一緒に木戸川の空気を吸っているおかげか、喘息の兆候はありません。

      前原団地の写真、もっとあればよかったんですが…。
      期待薄ですが何かしらないか探してみます。

      そうですね。人は必ず死にますね。
      健康であっても突然他界される方もおられます。
      病気でもうまく付き合いながら長生きされる方も。
      こればっかりは神のみぞ知る、です。
      まだまだ寒さが残っていますので、どうかご自愛ください。

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