4月になりました。
ついに解体のときが来たようです。
4月5日、西友前の入口が封鎖されました。
大量の鉄パイプをクレーン車で降ろしています。
12街区の住人はここを通って西友で買い物してましたから。
悲しみに出会うたび、あの人を思い出す。
4月6日、垣根が刈り取られ、なんか妙にすっきり。
ガキの頃から見慣れていた垣根ですから。
寂しさもひとしお。
3号棟の前はまだ残っていますが、時間の問題です。
虚しさに悩む日は、あの人を誘いたい。
4月6日、代わりに駅側からフェンスが立てられていました。
フェンスで囲まれたあとは、いよいよ解体でしょう。
さらば、涙と云おう。
4月7日、フェンスが西友前の入口あたりまで来ました。
近くで見ると意外と高めに立ててます。
悲しけりゃ、ここでお泣きよ。
4月8日、フェンスはもうすぐ3号棟。
ちなみに、フェンスの上端をみると段差があります。
子は清水があったという3-3号棟のほうが低いことを示しています。
西友前の入口にはドアが設置されました。
ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して
6月6日、足場が組まれました。
しばらく動きを見せていませんでしたが、ついに解体へと動き出したようです。
まずは窓ガラスなど、撤去できるものから取り除いていくものと思われます。
そこでふいに裏の棟が気になって、回り込んでみると、
もう始まってました。
近隣公園の土手から眺めてみると、一部は窓の撤去が進んでいて、さらに室内の建材をクレーン車で運び出していました。
こちらのフェンスを見てもやはり、子は清水があったという3-3号棟のほうが低いことが示されています。
粛々と解体へと進んでいます。
知らず知らず歩いてきた 細く長いこの道
6月23日
商店街側の足場は屋上を越えるところまで高さを増し、さらにネットを追加しはじめました。
3号棟でとび職人がパイプを設置しています。
6月24日
3号棟の足場も整ったようです。
6月25日
裏側を見てみると、ぁ
すでに解体が始まってました。
真ん中のほうは2階建てに変わってます。
あー。
7月6日
真ん中の4~6号棟は瓦礫と化しました。
中央広場に白い集会所が見えます。
ガキの頃はここでやっていたそろばん教室に通ってました。
広場の向こうの7号棟はこれからのようです。
あー。
7月20日
7号棟も消えました。
瓦礫の量も増えてますが重機の数も増えてます。
解体がまだの棟もよ~く見ると、バランス風呂釜を撤去していってます。
手すりとかサッシは固着しているだろうから解体後に仕分けするんだと思いますが、はずせるものははずしてリサイクルに回したほうが効率いいでしょうからね。SDGsってことで。
7月30日
3号棟がちょっと低くなりました。
向こうの空の入道雲がよく見えます。
バス通りや商店街に面した側ですので、破片だけでなく埃も飛ばないよう、慎重に解体しているものと思われます。
7月31日
商店街から見ると、2号棟の窓から向こう側が見える箇所がたくさんあります。
内装建材の撤去はあらかた終わったのでしょうね。
8月1日
3号棟が消えました。
8月14日
3号棟がなくなって、向こうの空が広くなって、入道雲が見えて、夏だなぁ、なんて思いながらよく眺めてみたら、向こうの空にビルの頭が見えていることに気付きました。
3号棟があってもギリギリ見えていた可能性はありますが、気づいていませんでした。
方向から考えて、八千代緑が丘のタワマンと思われます。
きたならは7階建てまでの高さ制限があるようなので、3街区も7階建てに建て換わる予定です。
いいと思います。
8月22日
2号棟の商店街側の防護網内側に板が張られていくようです。
作業員の方々が手作業で板を上げていました。
大変そうです。
8月23日
人力での作業は時間がかかりますね。
炎天下で大変なことです。
いよいよ2号棟の解体も間近に迫ってきたようです。
9月23日
バス通り側は目隠し板に覆われたままでなかなか進展が見られませんが、裏から瓦礫の音が聞こえるので、解体は着々と進んでいるようです。
今日は気になったので、近隣公園の土手上へ。
だいぶ進んでました。
そろそろ2号棟も1号棟もなくなりそうです。
12街区寄りはまだ窓枠をはずしたりの途中ですのでもうちょっとかかるのかな?
9月27日
ついに目隠し板が消え、空が現れました。
ここまで来ると寂しいというより清々しい。
空が広い。でも建て替わると7階建てだからなぁ。
「習志野台団地」の石板は残すのでしょうか。
10月11日
奥側の11号棟、絶賛解体中です。
交番の前から見るとよく見えました。
あれ?11号棟? 12号棟ってあった? あったような。
11号棟と12号棟はくっついて建ってたのかな?
写真をよく見るとそんな感じですね。
あんまりよく見てませんでした。
10月20日
11号棟、消滅しました。
残るは9号棟と10号棟のみとなっております。
10月22日
ワタクシがかつて住んでいた12街区に回ってみました。
なんと、
12街区から西友が直視できる状態に。
まだある10号棟の高さがこうですから。
この景色、今だけのものになる可能性が高いです。
取り壊しが終われば、新たに7階建てのマンションが建つわけですからね。
建て方によってはスキマから見えるかも知れないですけど。
さてどうなるやら。
11月11日
紅葉が美しい季節となりました。
そして9、10号棟も残りわずかとなってきました。
JuJuきたなら商店街からも12街区がはっきり視認できる状態となっています。
フェンスがなければもっとよく見えたでしょうけど、取り払われるのは新しいマンションが建ったあとになるのでしょう。
11月18日
JuJuきたなら商店街を歩いていると、キャンドゥのあたりから12街区の1号棟も見えていることに気付きました。
さらに歩いていくと、りそな銀行の前あたりから、14号棟15号棟が見えていて、その向こうに11街区の2号棟まで確認できます。
まだ瓦礫の撤去が続いているので、しばらくは広くなった空とともに堪能できます。
11月30日
JuJuきたなら商店街の中央広場を通して、かっぱ公園側から12街区の1号棟が見えることに気づきました。
子供の頃、この広場は道路で、もちろん屋根もなかった。
その頃からの見慣れた景色が覆った貴重な瞬間であります。
12月18日
今年も残すところあと2週間となってまいりました。
木枯らしが吹き、街路樹の葉もだいぶ落ち、商店街からの視界もだいぶ開けた感じがします。
12街区や11街区が商店街を歩いていても普通に目に入ります。
少し前の写真は、よく見える場所を探して撮影していましたが、今回はさらっと撮ってみました。
いつまでもこんな景色ならいいのにな。
まぁでも街というものは変わっていくものなのです。
12月25日
近隣公園の土手上からの光景です。
絶賛整地中です。
だいぶ瓦礫も減ってきましたが、まだかかりそうですね。
だいぶ長い記事となりましたので、2023年は新しい記事として継続したいと思います。
コメント
最後のは歌詞ですね
帰ってきた船橋市民さん、お久しぶりです。
です~わかっちゃいま、すよね~(^^;
寂しいなぁ、虚しいよなぁ、と思ったときに、小学生の団地住まいのときにポータブル電畜で聴いた中村雅俊のLPのことを思い出したのがきっかけでした。
で、今回はなんか思いついたものを入れてみようかと。
ご無沙汰しております。きたならパパ様、お元気でしょうか? そうですか……。思い出の場所が、また一つ、無くなってしまうのですね……。失望とは違うのですが、淋しさ、或いは、喪失感を、今、私は感じております。ましてや、きたならパパ様は、幼少期から青年を、その思い出の場所ですごされたのですから、そのツラさ、いかばかりでしょうか……。しかしながら、たとえ、思い出の場所が、無くなろうとも、私達の想いの中で、団地の建物は、「活き続ける」のでは無いでしょうか? 私は、そのように思うようにしています……。でも、ツライ!!
元新京成沿線住民さん、こんにちは。
ほんと、残念ですね。
高根台団地の一部は改修して残ることになったので、同じようにならないものかと思わざるを得ません。
もっとも、高根台団地でも駅に近い一帯は取り壊され、URのマンションや戸建に建て代わりましたので、駅近な3街区は仕方ないのかな。
でもワタクシが住んでいた12街区も比較的近いからなぁ。
いつかなくなってしまうのかも知れません。
こんばんわ、きたならぱぱ様、御元気でしょうか? 再度のコメント、申し訳御座いません。団地の解体写真を拝見させて頂きました。あまりの衝撃の為、言葉を失いました。きたならぱぱ様の思い出が消えていくシーン、さぞ、お辛い事と、お察し申し上げます! その辛さの中、私達、貴ブログの読者の為、冷静沈着に、記事を御書きになられているきたならぱぱ様……。私は心を打たれました! 前原団地が壊され、マンションや宅地に建て替えられたシーンを見た時の衝撃を、私は思い出しました。特に、幼少の頃住んでいたスターハウスが壊され、マンションに変わっていた光景は、辛かった!!両親の面影が無くなっていた為、悲しかった事を、私は、思い出しました。方丈記の序の箇所が、リフレインしております。町並みは変わらないように見えても、昔からの建物は、あまり残っていない。建て替えられたり、火事で焼け出されたりしている。住民も建物とおなじように、亡くなったり、引っ越しして、変わっている。水のながれのようである。無常なり……。いまの私の気持ちです。長文失礼致します。
元新京成沿線住民さん、こんにちは。
世の流れは水の流れのよう。まさにそんな感じですね。
跡地にはマンションが立ち、新しい人が移り住み、街は活気を取り戻していくのでしょう。
しかしその人たちもやがて歳を取り、建物は古くなり、いつかまた取り壊しの時が訪れる。
結局我々は一時期をそこで過ごし、思い出ができ愛着が生まれますが、未来永劫その場所に留まることはできない。
ありがとうございます。
コメントをいただいたおかげで、泰然と見守ることが大事だな、と再認識しました。
その場所に関われたことや、そこでできた思い出を大切にしていきましょう。
記念に滑り台の写真を撮っておくべきでした。子供の頃の思い出がいっぱい。
今思えば危険な遊びもしてましたね。小4の時かな。一番上から、滑り台とは
反対方向の芝生の方へ飛び降りたり(冷汗)
りんりん永遠の51歳さん、こんにちは。
幅の広い滑り台がありましたね。
そうそう。芝生に飛び降りてました。
今の子はやらない、ですよね。(^^;
んーなんか寂しいような。
昔の子供はめちゃくちゃですw でも、大怪我をしたような話は聞いたことがなく。一見危険な遊びのように見えますが、これ以上はダメという一線を判断する能力は昔の子供の方が高かったような気がします。
そうですね。
ざっくりですが、芝生ありで2階くらいまで、みたいな感覚でした。
芝生なしだったら2mくらい?(^^;
・・今だと1mかなぁ。(^^;;;
高根公団に住んでました。
私も2006年~2015年にかけて高根台団地の建ての様子を1000枚以上撮影しました。
今は病院や戸建てになってたり、新旧見比べてみると全く別物・・・
記録に残すのは重要ですね。後々貴重な資料になると思います。
コメントありがとうございます。
励みになります。
ワタクシも高根台団地の写真をたくさん撮りました。
でもまとめられないままやがて棚上げ・・。
今回は気が向いたら追加するようなスタイルでなんとかなっています。
きたならぱぱさん、ご無沙汰しております。白井です。
私も先日、ほとんど消滅している三街区を見て衝撃を受けました。
ぱぱさんが通われていた集会所、私も一瞬そこでやってた塾に通った事あります。
他の方も仰っておりますが、あそこの巨大滑り台、私も写真に撮っておけばよかった。私の弟は三街区の前(商店街に面した通り)にある昔ながらの街灯が好きで、撤去するなら照明部分くれないだろうか?と本気で言っております。
11街区に親が住んでる元同級生に聞きましたが、三街区は立ち退き料が1世帯に1,000万円だと聞きました。
白井さん、こんにちは。
集会所の塾は日替わりでそろばんと書道だったかと思います。ワタクシはそろばんのほうに通ってました。
あの街灯、団地~って感じでいいですよね。捨てるんならくれ~って言えばもらえそうな気もしますが。
立ち退き料、けっこうな額ですね。
中古でよければ近隣の戸建も買えますね。
でも3街区はホントに駅近ですからどうしても利便性は落ちますので、そこが納得できるかどうかですね。
団地の街灯ですな…。激しく同意です。「LED化すれば、まだ使用可能かな?」と思いました。既存の蛍光灯機器のLED化を、よくみかけますので、団地の縦型街灯も可能かと思いましたね……。縦型街灯の好きな方がいらして、嬉しいです!!
はじめまして。津田沼「サンポー」の想い出からこちらを知り、お邪魔しました。
私は習志野台団地入居開始の昭和42年から昭和52年まで、1歳~11歳まで5街区の狭い2DKで育ちました。自分の幼少期は習志野台で培われたので、今もふるさとだと思っています。
前原、高根台がぶっ壊されたので心配していましたが、習志野はリノヴェーションで生き残ると思われ安心していたのですが、3街区、やられちゃったんですか!2年に1回くらい懐かしくて訪ねていたのですが、知りませんでした。
分譲なのに、どうやって全員退去させたんでしょう?
これはショックです。
いまコロナ隔離中で身動き取れないのですが、解放されたら必ず自分の目で確かめます。
コジハルさん、こんにちは。
3街区は消滅です。ほぼなくなりました。
そして11街区もなくなる予定です。
退去費用がけっこう出たらしいです。
5街区は11街区より古いですが、いまのところ建て替えの話は出ていないようです。
でも、やがてはその時が来るのでしょう。
次回きたならに来られた際は、思い出の場所をたくさんカメラに収めておきましょう。