大穴の地名の由来についての考察

以前、特集:木戸川 番外編 暗渠が続く大穴川④ 机上検証編にて大穴地名発祥の地説を立てておりました。

大穴在住の大穴マユミさんより、大穴の地名は大穴北にあった大穴村が発祥ではないか、とのご指摘をいただきました。

大穴南は海老ヶ作だから違うのでは?と。

軟弱なワタクシ、ですよね~、って瞬間思っちゃいました。

でもやはりなんか引っかかる気がして、もうちょっと掘り下げて調べたところ、やっぱり我が説、捨てたもんじゃないかも、いや、まじで正しいんじゃね?(すんません、58のおっさんが)、と思えたので、ここにまとめてみます。

大穴村の数名が木戸川を遡り、大穴川との合流点より上流を開墾して移り住んで海老ヶ作と名付けたその前のことを考えてみると、小金牧の一部だったと考えられます。

もっとも、大穴村もそれは同じで、江戸時代に入るまでは馬の放牧地でした。

江戸時代(1609-1868)に入ると下総の広い範囲を小金牧として管理するようになります。
といっても、エリアの多くは原野のままです。

延宝年間(1673-1681)の検地で、小金牧の規模縮小と引き換えに牧を取り囲む形で数多くの新田が成立しています。
原野のまま馬走らせとくより、田畑として農民に使わせたほうが、年貢が取れますからね。

この時期に大穴新田もできたと考えられます。

じゃあその大穴新田の範囲は?と考えると、木戸川とその支流全体と考えるのが自然ではないでしょうか。
(神保川については神保新田として分けられていたようです。明治の地図で源流付近に記載があります。また、村が先に存在し小金牧からははずれていたため、検地と新田成立の記録が残されています。大穴新田も神保新田と同時期に成立したと思われるため、参考になります。)

まさに野馬土手で仕切ったあのランドロームから東側の部分、です。

大穴新田市民の森、が現在も大穴北8丁目の住宅地内にありますので、この辺一帯が大穴新田であったことの裏付けになるかと思います。

犬の散歩でこの公園を見つけたときは、花が綺麗に植えられていたりして、いい森林公園だなぁ、と思いました。余談でした。

習志野原も元を正せば大和田新田の一部であったことを鑑みると、大穴新田ももっと広い範囲だった可能性もあり得ます。
が、西側の際は野馬土手で間違いないでしょう。

農民が入植するにあたり、大穴新田の中で比較的開墾しやすかったのは下流の平坦な古和釜橋周辺だったことから、そこに村が形成され、およそ100年後村で斎藤その女(1781-1867)が産まれた、という感じではないかと思います。

その後、手付かずだった上流域に入墾した村民が、海老ヶ作、と新たに名付けたのではないでしょうか。

そこでもうひとつ気になる点が、海老ヶ作の範囲です。
明治36年の地図を眺めてみると、海老ヶ作の中心は江戸時代に錠場と呼ばれていた五差路に近い一帯となっています。

ここは高台であり、谷津田を開墾して作られた新田とは分けて考えるべきなのかな、と。
何が言いたいのかというと、上流域に入墾した村民が作ったのは田んぼではなく、畑だったんではないか、ということです。

そう考えると、ランドローム近くまで延びていた谷津田すべてを大穴新田としても何ら不都合がないことになります。
というよりむしろ、あとから開墾するまでは、この界隈に大穴新田以外の地名などなかったはずなのです。野生の馬が走る原野だったので。

大穴新田が農民に供与されてから斎藤その女が産まれるまでだけでも100年以上の歳月が流れているわけですから、木戸川・大穴川・南大穴川・三咲川、流域のすべてを田んぼにするのに十分な時間があります。

10年もかからずに上流まで達していたかも知れません。
畦をこしらえたら耕して川の水を引くだけですから。

完成して手が空いたので、田んぼに飽きたらず、森林だったであろう高台を切り開き畑を耕し、海老ヶ作が作られた、ので村から人が移り住んだ、ということではないでしょうか。

で、肝心の大穴新田の名前はなんでそうなったのかと言えば、まさにこっちは牧ね、こっちは新田ね、と野馬土手で仕切ったその場所にでっかい穴があったから。
こう考えれば自然なことかな、と思えます。
まぁやはり、所詮「説」の域は出ないんですけど。
信憑性は増したのではないでしょうか。

コメント

  1. 帰ってきた元船橋市民 より:

    相当昔 貝塚とかそういう時代には ローソン 船橋大穴北店 の西側の川沿いに集落があったと町会報と一緒に配られる資料に書いてありました。
    そこまで古いと参考にはならないかも知れませんけど。

    • きたならぱぱ より:

      帰ってきた元船橋市民さん、こんにちは。

      貝塚だったんですよね~海老ヶ作って。
      その頃(縄文時代)は、谷津田が遠浅な海だった、ということになります。
      海老ヶ作は木戸川と大穴川に囲まれた地形ですから、海に囲まれた岬のような場所だった。
      そりゃもう貝も魚も獲りまくりですよ。
      で縄文式土器で煮込んだり保存したり。
      食うに困らない理想郷だったと思います。

      先日の取掛西貝塚も高郷小がある高根木戸遺跡も飛ノ台貝塚も同様です。
      おそらく宅地化で潰してしまった貝塚が船橋にはもっとたくさんあったはず。夏見・金杉・芝山・七林・飯山満あたり。
      船橋は東京湾のいちばん奥ですから、波が穏やかで獲物が捕りやすい好立地だったんだろうなぁと思います。

  2. 大穴マユミ より:

    大穴マユミです。
    検証ありがとうございます。
    全く大穴町を知らない人からしたら「大穴」なんてギャンブラー大好物な地名ですよね(笑)
    野馬土手といえば、数え歌のように全部言えるのが開墾した順番に付けられた地名です。
    初富二和三咲豊四季五香六実七栄八街九美上十倉十余一十余二十余三。
    で牧の境い目とかに設けられた木戸。
    高根木戸に新木戸、牧の木戸などなど。
    二和小横の野馬土手は船橋でも有名な遺跡ですが、大穴にも個人宅内ゆえ、未調査(多分)の土手跡はまだあります。
    流石に今は土手感は崩れたり埋まったりで無くなっていますが、私の子供の頃は子供はハマってしまうほど深めでした。
    あと馬よりも猪とか避けだったらしいです。

    • きたならぱぱ より:

      大穴マユミさん、こんにちは。

      大穴、かつて市川に住んでいたさだまさしさんもトークのネタにしていました。

      数え歌の地域を改めて見ると、梨やぶどう畑が多いエリアですね。八街だけは🥜以外考えられないですけど。(^^;
      袋の裏に八街って書いてあると安心します。

      野馬土手、高根台第二小の校庭にも残されています。
      学校前のバス通りあたりが古和釜木戸だったことを伝える貴重な遺構です。

  3. 薬園台 より:

    大穴・金杉・海神・飯山満とかその辺とか特になんとなくだけど、
    自転車やバイクや車の通過で なんとなく 景色とか、
    住宅地の感じで、興味があるなあ。

    由来とか調べないから正確には分からないが、皆様のコメを参照します。

    金杉、海神は住んだ事 昔実際有ります。
    大穴や飯山満は住まないが、興味が有ったんです。
    芝山に行くと薬園台の自宅から必ず通っていたかな。

    かなり記憶に遠くなりましたが。

  4. 大穴マユミ より:

    こんにちは、アチコチに書き込みスミマセン。
    パパさんはご存知だと思うのですが、大穴北八丁目には「海軍七勇受難の地」碑があります。
    私が小学生時代、大穴は北に別れて小学校が立ちました。
    大穴小と北小です。
    なので、南の子は北まで行かずに過ごしていました。それで十分遊ぶ友達はいたので。
    で中学で合流するわけですが、北の一部の子が「薮の中にお墓がある」「親やじいちゃんが行っちゃダメ」と言われた森がある、というんです。
    すでにワクワクが止まらなかったですが、さすがに中学女子では一人で藪には入らず、記憶の片隅でした。
    それがこの碑です。
    今は整備され松が丘からもよく見えます。
    木戸川遊歩道散策していても見えるので、興味ある人は参ったりするようです。
    多分、昔の私世代の子供の頃は、半分倒れて放置時代。
    しかも親の行っちゃダメは絶大な効果ある世代。
    肝試し感覚で入ったら、見つけてしまい、ギャーと逃げたんでしょう。
    この碑は整備されネット検索すると戦争の痕跡として上がります。
    昭和17年、今とは地図も異なる大穴(戦争被害はほぼ無かったと聞く)で平和を思います。

    • きたならぱぱ より:

      大穴マユミさん、こんにちは。

      わが家では5年ほど前から柴犬を飼い始めまして、犬の散歩が日課となりました。
      そのお散歩で通りかかってはじめて知りました。
      なので、すっかり整備され、入り口に看板が設置されてからですね。

      それでも、こんなところに墜落したのか、、、と遠い目になるのに十分なインパクトがありました。

      川沿いは田んぼが広がっていたでしょうけど、そこからはちょっと上がったところ。
      当時はまさに藪の中に墜落した若き命たち。
      訓練中とはいえ戦況が悪化していく中での墜落。
      地元住民にはこの事故を口外しないよう何度も注意を促されたそうです。
      そういう空気感が代々伝えられてきたのかな、と思います。

タイトルとURLをコピーしました