特集:木戸川 番外編 暗渠が続く大穴川④ 机上検証編

さて、それでは昔の地図を見ながら考えてみましょう。

明治36年の地図を見ると、三咲から来た道が谷津田に差しかかると、大きく迂回して当時まだ残っていた野馬土手を削ってまで迂回し、ランドロームのある高台を経由して滝不動、ないしは高根のほうに抜けていく様子がわかります。

そして、ワタクシが大穴の由来となったと考えている窪地を町境の破線が通っていることから考えても、ここが深くて人が通り難い場所だったことが伺えます。

沼、でしょ。

大正の地図は崩れてますが、次の昭和4年のものとまったく変わらないので飛ばします。

昭和4年になっても特に状況は変わらないようです。
昭和27年になると、迂回するのが面倒だったんでしょう、沼地を埋め立てたのか、歩行者が通れる道ができたようです。
戦後です。技術も進化し、徐々に人の手が入るようになったのでしょう。

もっとも、削った野間土手の土砂を人海戦術で投げ込んだだけかも知れませんが。(^^;
そんなことだから均一に埋まらなかったんじゃ?

戦後だ技術だと言いましたが、まだこの地には到達していなかったように感じます。

昭和42年になると、窪地に道路が通っています。
あのドーナツ状の穴があるコンクリート舗装の坂道はこの頃できたようです。

さらに、南大穴川の上流、商店街にも道路ができ、民家も建っています。
やはり商店街エリアは川らしいものではなく、あってもせせらぎで、おそらくこの時点で側溝にされた可能性が高いと思います。

昭和53年には一気に街に。この11年の変化は大きく、谷津田もすっかり潰され、ほぼほぼ現在の街並みが形作られました。

大穴川についてもこの時期にどぶ板化されたと考えられます。

ただ、、、道はこれだけじゃないだろ、って思います。これじゃ再建築不可物件だらけだ。

歩道がある道にしても、窪地まで繋がっていないことになっていますが、住宅が建っていますからね、この時点で道はあったと思われます。

平成9年の地図もぜんぜん道が増えていませんが、多少の違いはあれど、昭和53年の時点で令和2年とほとんど変わらないところまで完成していたはずです。

まぁ、私道は載せない、などとしていた方針が変わったんでしょう。

川のほうに話を戻しましょう。

大穴川上流に関しては、明治から昭和初期までは窪地を避けるように道ができていたことから、沼地があったという推察が裏付けられたと考えます。

沼地に一定程度水が溜まると川へと流れ出すわけですが、泥が多かったのでしょうね。

もし水が澄んでいたら池として、さほど澄んでなくても沼として重宝され、地図にも載ったと思いますが、沼、それも泥沼。規模もちょっと深い水溜まりくらいだったのかな、と思います。

一方、南大穴川のほうは地図を見てもあまり得られる情報はなかったのかな、と思います。唯一、昭和42年に上流域に道路ができ、間を置かずに家が建っていることから考えるに、前回の地図から15年以内に家が建つということは川や田んぼなど水気の多い土地ではなく、畑や沢地だったのではないかな、と想像できることでしょう。

そもそもそれ以前も人が歩く道はあったようで、遡ると明治36年の地図から歩いている。
でも、谷津田に入ると歩く道は谷津田の南側に避けていく。

川はそれより下だったんだろう、と推察します。

ここで今回、初の試みとして、現在の地図に1960年の谷津田の画像を重ねてみて、考察を深めたいと思います。

国土地理院 航空写真 1960年 大穴川

国土地理院、1960年の航空写真 KT60ACZ-C5-81 左に26度回転しています。

そして現在のGoogle Map。

谷津田の部分を投げ縄ツールで選択して地図上に貼りつけます。

Google Mapに国土地理院1960年の航空写真を乗せてみた

角度を揃えるのもさることながら、縮尺を揃えるのはなかなか大変でした。もっとうまいやり方があったかも。

まぁそれなりに地図に乗せることができました。

特に気になっていた、最上流はどこか、に対する可能性を模索します。

まず大穴川本流。

ランドロームフードマーケットの位置に小ぶりな建物が建っていますが、その周囲が庭のようになっています。普通の住宅ならば、南側に庭を広く取ると思いますので、これは神社とか、湧水や井戸のようなものの可能性が高いように見えます。

そしてそこから東の土地が低くなっていき、その先に窪地があるわけですが、間の土地が木で囲まれた公園のようになっています。

空き地かも知れないし、何かに利用されていたのかも知れませんが、清水の流れがあった可能性はありそうです。
そう考えたほうが府に落ちる写真かと。

さらに拡大してみると、

国土地理院 航空写真 1960年 KT60ACZ-C5-81 大穴川源流域の拡大写真

庭の一部が池のように黒っぽく見える。(考えすぎか?)
窪地に向かって道路を横切る川筋のようなものが見える。(これは見えてしまう)

ワタクシが幼少のころは、都内でもまだ舗装されていない土の道を幅30cm程度の水路が横切る風景は目にしたことがあります。
そんなときは車の車輪が通るところだけどぶ板を渡したりして通れるようにしていました。
脱輪したって、ミゼットみたいな車は屈強な男が2人もいれば上げられますから。

もはや確かめようのない過去のことですが、ここまで積み上げてきた状況を鑑みれば真実に近づいている気がします。

最後に南大穴川の上流について。

当初色めきたった階段は位置的に沢に降りるためのものでした。
沢を渡ると現在の小学校の敷地を人が通り抜けられる抜け道があったようです。

先ほどの谷津田を載せた地図に小広場と書いた部分、谷津田に横たわるように土が露出しているように見えます。幅は5m程度。

重ねたことによってはっきりしましたが、この小広場のちょうど東側にマンホール階段が位置しているんです。

当時は丘の上に果樹園が拡がっていたようで、そこに降った雨水は確実に谷津田へと流れることになります。

小広場のあたりでせせらぎ程度の流れは形成されていた可能性はじゅうぶんにあると思います。

南大穴川 源流付近 今昔マップより

左の過去地図でマウスカーソルがある位置が、徒歩道が谷津田の東側に出る場所です。
右の現在地図で○の表示がある場所が対応しますが、現在は小学校の北側の道路になっています。

そしてそこからは谷津田の東側に沿って少し高いところを歩いていたようです。
田んぼが深かったり、川が流れていた、ということだろうと思われます。

マンホール階段、そして小広場、道。
すべてが川があったことを示している、と結論付けたいと思います。

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