特集:木戸川 番外編 暗渠が続く大穴川② 上流編

 

前回の突撃レポートでは、木戸川との合流点からハシゴ式開渠を遡り、暗渠に入ってからも途中まではどぶ板が続く道をたどって行けましたが、そこから上流は見失った感満載で終わりました。

そこで、地図などで調べた上で再調査することにしたのでした。

国土地理院の航空写真を見ると、この地域が宅地化される前の様子を知ることができます。

国土地理院の1960年の航空写真を見てみましょう。

まずは前回たどった大穴川下流域。
バス通りまでのハシゴ式開渠のエリアについては、木戸川との合流点からまっすぐ木々のそばに延びたあと木の影で見えなくなっているので、現在と同じ場所を流れていると考えられます。

ただ、木戸川もそうですが、この1960年(昭和35年)の時点ですでに川の流れは土木工事によって変えられているので、もともとの流れはおそらく、谷津田の真ん中を通る道すじではないかと思います。いかにも川らしい蛇行を見せていますしね。

次に大穴川上流域。
1960年当時はバス通りの上流側にも暗渠はなく、下流に引き続き、谷津田の南側を川が流れていたようです。

そして森に沿って左に大きく曲がったところで谷津田はふた手に分かれています。

前回まっすぐ進んだ大穴小学校の裏手方向にも南側の谷津田が存在しています。ただ商店街のあたりまで遡るとそこは畑のように見えます。

一方、二股に分かれた北の谷津田のほうがより長大で、現在のランドロームフードマーケットのあたりまで延びていたことがわかります。

とはいえ、南側のほうも谷津田より先は草むらのように見えますので、川の流れがそこまであったとすれば、こちらのほうが長いかも知れません。

ただ、長かったとしても傾斜の緩やかさから想像される川の規模は小さく、小川というよりせせらぎだった可能性もあります。

湿地帯をチョロチョロじわじわ流れるようなものだったかも。

現在も両脇に大きめの側溝があれば代替できる程度の水量なのだろうと思いました。

一方、北の谷津田の先は滝不動エリアですので、湧水や地下水が源流になっている可能性が高く、木戸川との合流点での大穴川の水量がいつも一定程度あることを考えれば、雨水だけではなく湧水も流れ着いていると考えられます。

また、下流域からのもともと川だったであろう道すじをたどっていくと、途中から途切れ途切れになるものの、北の谷津田のほうに向かっていることがわかるだけでなく、むしろそっちのほうがまっすぐで自然に感じられます。
現在の道路そしてどぶ板ををたどったから曲がっていると感じただけで。

ということで、北の谷津田を流れる川が本流であると推察しました。

ということで、本流のほうを大穴川上流、南の谷津田を流れる川を南大穴川と呼ぶことにします。

地図を確認しておきます。

それでは、どぶ板が消えた交差点、地図ではすすきヶ丘自治会館南の変形十字路から西へ、大穴川上流=ランドロームのほうへと進みます。

とはいえ、川の痕跡はない上に、すぐに道が二股に別れます。
前後の写真からは道の左側がより低く見えますね。

しかし、少しうろうろすればわかりますが、左に行くと大穴第1号公園までは川らしい上り坂にも思えるんですが、ちょっと登り過ぎで、その先がそれなりの傾斜の下り坂となるので、こちらではなく右だろうな、と判断できます。

公園の先で振り返って撮影しています。
左のほうが低く見えます。左の坂を下ると先ほどの右の道があり、後ろも下り坂です。

先ほどの航空写真では上流付近の南の林にこの公園が位置していると思われます。

では、元に戻って、こんどは右の道へ。

この写真で見ても右の道のほうが高いですけど、あえて右の道を進むと、道の左端が歩道になっています。

閑静な住宅地にしてはやや幅広の歩道です。

しかもこの住宅地内でこのような歩道があるのはここだけですし、歩道上にところどころマンホールがあるので、おそらくこの下に暗渠、実態は土管が埋設されているものと推察されます。

そして。

歩道のマンホールをよく見ると、

ふなばし うすい  となっています。
船橋 臼井 じゃあないでしょうね。(^^;
船橋 雨水 でしょう。

やはりこの歩道の下に雨水=川の流れを通す管が設置されていることがわかりました。
まぁ、あくまでも現在の川の流れ、ということになりますが。

歩道のマンホールは11個ありました。見落としてなければ。

船橋のロゴのみでうすいとなっていないのもあります。とか湧水とかかも。

歩道は最終的に坂の途中の交差点に到達して終わりますが、この交差点、やたらマンホールの数が多い。あやしい。

そしてここにも「大雨時道路冠水注意」の看板が。

坂は少し左、南に20mほど下ると最も低くなる感じです。

逆に交差点の北側は急坂でドーナツ状の穴があるコンクリート舗装。
直進方向の西側も少し行くと上り坂になっています。
が、その西の道に入ると、珍しいマンホールを発見!

排泥栓。
これがこの地形の謎を解く鍵になりそうです。

そして西の坂を上がるとランドロームフードマーケットがあり新京成が走る分水陵です。
この坂もやたらマンホールの数が多いです。
この地の治水との戦いは大変だったのだろうと想像されます。
いまもゲリラ豪雨が来れば冠水してしまうみたいだし。

先ほどの交差点に戻り、坂の下に行ってみます。

北側を見ると西の道も含め、雨水はこちらに流れて来るでしょう。

南を見るとやはり上り坂で、左右に見えている路地もすべて上り坂です。雨水は重力に抗うことなくこちらに集まって来る。

すなわちこの地点が窪地であり、周辺の雨水や湧水を集め、大穴川へ水を送り出す源流になっていたと思われます。

現在はすっかり整備され住宅が立ち並んでいますが、谷津田もまだなかった頃はここが沼地のような状態だったはず。

大穴の地名は小穴城から来たとか、三咲川との合流点が深かったところから来たという説がありますが、実はそんな遠くが由来ではなくて、こんな小川の上流なのに、ここに足を踏み入れるとずぼっと嵌まって抜けられなくなる危険な沼だったから大穴と呼ばれたんじゃないだろうか。

写真だけ見てもここが低くなっていることは十分伝わると思います。

現在もときどき泥を取り除く必要があるから排泥栓が用意されている、とても泥沼化しやすい環境、ということでしょう。

ということで大穴の由来はここ、三咲5-7と三咲6-1の間、という新説を唱えておきます。
大穴から流れ出る川がまずあって、からの大穴という流域名からの地名です。
わりと信憑性があると思っていますがいかがでしょ。

 

コメント

  1. 帰ってきた船橋市民 より:

    ランドローム手前の交差点付近は排水中継ポンプを作るまで谷底ではなく、かといって放っておけばいずれ砂が堆積して問題になるところだと思います。
    昔、下水関係の仕事にちょっと関わったので川のあったところをまず最初に道路にしてその下に昔で言う土管を埋めていたと聞きました。
    西船橋の葛飾川などがそうですね。
    道路の真ん中に暗渠がそのままとか。

    川のあったところを無理の埋めても軟弱のままで家は建てられない(今はまた違うでしょうけど)ので出来るだけ元の川を利用するとも。

    • きたならぱぱ より:

      帰ってきた船橋市民さん、こんにちは。

      ワタクシもまず道路ありき、と思っていたんですが、現地を見るとどう見ても上流の窪地の位置に向かって道路ができていないんです。
      窪地に溜まった水が溢れて川になっていたはずなのに。
      そこで④机上調査編では現在の地図に谷津田を貼り付けてみました。
      するとやはり、現在の道路とは一致していないんです。
      無理に高いところを通そうとするからポンプが必要になるんですよね。
      なぜそうしたのか、は、さっぱりわからないです。
      低いけど地盤はそっちのほうがしっかりしていた、とか?
      でも豪雨になると、低いところに建てた家が大変なことになりそうですが・・。

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