坪井の森と桑納川の記憶
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木戸川、2020春
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木戸川に汚染物質が
木戸川に汚染物質が、続
木戸川にキジ、あらわるあらわる~
さて、それでは昔の地図を見ながら考えてみましょう。
明治36年の地図を見ると、三咲から来た道が谷津田に差しかかると、大きく迂回して当時まだ残っていた野馬土手を削ってまで迂回し、ランドロームのある高台を経由して滝不動、ないしは高根のほうに抜けていく様子がわかります。
そして、ワタクシが大穴の由来となったと考えている窪地を町境の破線が通っていることから考えても、ここが深くて人が通り難い場所だったことが伺えます。
沼、でしょ。
大正の地図は崩れてますが、次の昭和4年のものとまったく変わらないので飛ばします。
昭和4年になっても特に状況は変わらないようです。
昭和27年になると、迂回するのが面倒だったんでしょう、沼地を埋め立てたのか、歩行者が通れる道ができたようです。
戦後です。技術も進化し、徐々に人の手が入るようになったのでしょう。
もっとも、削った野馬土手の土砂を人海戦術で投げ込んだだけかも知れませんが。(^^;
そんなことだから均一に埋まらなかったんじゃ?
戦後だ技術だと言いましたが、まだこの地には到達していなかったように感じます。
昭和42年になると、窪地に道路が通っています。
あのドーナツ状の穴があるコンクリート舗装の坂道はこの頃できたようです。
さらに、南大穴川の上流、商店街にも道路ができ、民家も建っています。
やはり商店街エリアは川らしいものではなく、あってもせせらぎで、おそらくこの時点で側溝にされた可能性が高いと思います。
昭和53年には一気に街に。この11年の変化は大きく、谷津田もすっかり潰され、ほぼほぼ現在の街並みが形作られました。
大穴川についてもこの時期にどぶ板化されたと考えられます。
ただ、、、道はこれだけじゃないだろ、って思います。これじゃ再建築不可物件だらけだ。
歩道がある道にしても、窪地まで繋がっていないことになっていますが、住宅が建っていますからね、この時点で道はあったと思われます。
平成9年の地図もぜんぜん道が増えていませんが、多少の違いはあれど、昭和53年の時点で令和2年とほとんど変わらないところまで完成していたはずです。
まぁ、私道は載せない、などとしていた方針が変わったんでしょう。
さて、
川のほうに話を戻しましょう。
大穴川上流に関しては、明治から昭和初期までは窪地を避けるように道ができていたことから、沼地があったという推察が裏付けられたと考えます。
この窪地が大穴地名発祥の地説も信憑性を増したな、と思います。
現在の窪地でさえドーナツ穴つきの斜度のある道路なわけですが、元々はもっと深かった。
どのくらい深かったんだろうか。倍?1.5倍?
通れない!無理!迂回しよう!と思うくらいですので、倍くらいがふさわしいかな、と想像します。
あるいは斜面がもっと切り立っていたか。そっちかな?どっちもか。
もっと昔、江戸時代に野馬土手を作ったときのことに想いをめぐらせてみても、その深い穴をかすめるように野馬土手を築くことにより、馬を封じ込める牧を作るべし、と考えたのでしょう。
そのくらい下りはじめるギリのところに寄せるようにカーブしながら野馬土手は作られています。
ていうか、よく見ると、下りはじめのところは野馬土手が切れていますね。
そこからして深かったということか。
馬から見ても、無理無理無理無理!降りられないや!と思う程度に。
野馬土手がなくても十分な程度に。
現地を見たときは窪地は道路付近+α程度の狭い範囲かと想像していましたが、それは埋め立てられさらに家々が立ち並んだあとの様子を見ているからであって、もっとランドローム側まである大きな窪地だった、ということを地図は示しているようです。
となれば、まさに大穴と呼ぶにふさわしい規模です。
もう、絶対こっちが発祥の地でしょ。そうとしか思えん。
さらに大穴の底から針葉樹林が生えていて入りにくい環境だったようです。
そして、窪地の深いところにできた沼地に一定程度水が溜まると川へと流れ出すわけですが、泥が多かったのでしょうね。
もし水が澄んでいたら池として、さほど澄んでなくても沼として重宝され、地図にも載ったと思いますが、沼、それも泥沼。規模もちょっと深い水溜まりくらいだったのかな、と思います。
一方、南大穴川のほうは、というと。
地図を見てもあまり得られる情報はなかったのかな、と思います。
唯一、昭和42年に上流域に道路ができ、間を置かずに家が建っていることから考えるに、前回の地図から15年以内に家が建つということは川や田んぼなど水気の多い土地ではなく、畑や沢地だったのではないかな、と想像できることでしょう。
航空写真の見た目を裏付けた形です。
そもそもそれ以前も人が歩く道はあったようで、遡ると明治36年の地図から歩いている。
でも、谷津田に入ると歩く道は谷津田の南側に避けていく。
川はそれより下だったんだろう、と推察します。
ここで今回、初の試みとして、現在の地図に1960年の谷津田の画像を重ねてみて、考察を深めたいと思います。
国土地理院、1960年の航空写真 KT60ACZ-C5-81 左に26度回転しています。
そして現在のGoogle Map。
谷津田の部分を投げ縄ツールで選択して地図上に貼りつけます。
よっこらしょっと!
角度を揃えるのもさることながら、縮尺を揃えるのはなかなか大変でした。
もっとうまいやり方があったかも。
まぁそれなりに地図に乗せることができました。
二股のところではやはり右の歩道の道を通っていた、というより、全体的にもっと北寄りだったことがわかります。そこから窪地のほうに曲がって歩道の道より南にシフトします。
現在の川(土管)の流れは人工的に変えられたものであり、谷津田も人工的なものではあるけれど、傾斜に沿って水の流れに逆らわずに忠実に耕されていることがあらためてわかります。
では、この重ね地図を見ながら、特に気になっていた、最上流はどこか、に対する結論を得るべく可能性を模索します。
まず大穴川本流。
ランドロームフードマーケットの位置に小ぶりな建物が建っていますが、その周囲が庭のようになっています。普通の住宅ならば、南側に庭を広く取ると思いますので、これは神社とか、湧水や井戸のようなものの可能性が高いように見えます。
そういう人が集まる場所だったからのちにスーパーができた、とも考えられます。
そしてそこから東の土地が低くなっていき、その先に窪地があるわけですが、間の土地が木で囲まれた公園のようになっています。
空き地かも知れないし、何かに利用されていたのかも知れませんが、清水の流れがあった可能性はありそうです。
そう考えたほうが腑に落ちる写真かと。
さらに拡大してみると、
庭の一部が池のように黒っぽく見える。(考えすぎか?)
窪地に向かって道路を横切る川筋のようなものが見える。(これは見えてしまう)
ワタクシの幼少期、昭和40年代ごろは、舗装されていない土のままの道はまだけっこう残っていました。都内でもまだ舗装されていない土の道を幅30cm程度の水路が横切る風景は目にしたことがあります。
そんなときは車の車輪が通るところだけどぶ板を渡したりして通れるようにしていました。
脱輪したって、ミゼットみたいな車は屈強な男が2人もいれば上げられますから。
開発途上段階の町ではわりと普通のことだったかなと思います。
もはや確かめようのない過去のことですが、ここまで積み上げてきた状況を鑑みれば真実に近づいている気がします。
続いては
南大穴川の上流について。
まず最初に、階段があった場所は沢地でしたので、あの階段は沢に降りるためのものであり、けっこう色めき立ちましたが、位置的に川とは無関係のようです。
現在の小学校の敷地は森でしたが、階段を降り沢を渡るとちょうど森が切れ人が通り抜けられるところに出るので、海老ケ作方面への抜け道として長いこと便利に利用されていたようです。
注目すべきは階段よりもうちょっと下流。
先ほどの谷津田を載せた地図をあらためて見てみましょう。
ここに小広場と書いた部分、谷津田に横たわるように土が露出しているように見えます。
幅は5m程度。
ここから下は谷津田、上は沢地のようです。
拡大!
よく見てみましょう。
先人はなぜここにこのような空間を作ったのか。作業のためのスペースなのか、分断したかったのか、踊りたかったのか。とにかく、
ここにしようと思ったのは、ここに何かが、ほかとは違う何かがあったからだと考えられる、そのことが重要です。きっと何かがあったはずです。
沢地に生える雑草が小広場に影を落としています。
この雑草を田畑に呼ばないようにするために広場を作ったとも考えられます。
西側の木々も過去にはなかったようで、この地に意味をもたらしています。
ここの雑草はなぜこんなによく育つのか。
広場から5~10mくらい上流の東側の斜面に木がなくなり斜面がへこんでいる場所が確認できます。へこんだ奥には10mほど木がない空間が続いています。
これは水が流れたことを示唆している感じがします。
たいした量ではないかも知れませんが、この森から流れ出た水がここに集まり、斜面に沿って小広場の横を流れていたのではないでしょうか。
その水があるから雑草がよく育ってしまう。
だからこそ、ここに広場を作ったのではないか。
また、地図に谷津田の写真を重ねたことによってはっきりしましたが、この小広場のちょうど東側にマンホール階段が位置しているんです。
当時は丘の上に果樹園が拡がっていたようで、そこに降った雨水は確実に谷津田へと流れることになります。
小広場のあたりでせせらぎ程度の流れが形成されていた可能性はじゅうぶんにあると思います。
果樹園だったところに住宅地を造成するにあたり、どこに下水道を通すか、という計画を立案する際、小さな流れでもあれば、そこに道路を作り、下水管を埋設しようと考えるはずです。
そこを家の敷地にしてしまうと、あとで地盤沈下を起こしたり、湿気が上がりカビが生えやすくなったりしてクレームになりかねません。
下水管を通して流れを引き継ぐほうが安全です。
また、昭和30年ごろまでは川=下水という考え方が一般的でした。
しかし下水を垂れ流していた結果、川は汚れ、魚は姿を消し、流れ着いた海はヘドロにまみれ、水俣病をはじめとする公害病を引き起こします。
その後、垂れ流しは禁止され、浄化したあとの水を川に流す形に変わりましたが、水の流れとしての考え方が変わったわけではありません。
そうしてできたのが、あのマンホールがある階段なのだろうと思います。やはりここに流れがあったことを示唆しています。
左の過去地図でマウスカーソルがある位置が、徒歩道が谷津田の東側に出る場所です。
右の現在地図で○の表示がある場所が対応しますが、ちょうどマンホール階段のひとつ手前の道からです。現在は小学校の北側の道路になっています。
そしてそこから下流方向へは谷津田の東側に沿って少し高いところを歩いていたようです。
田んぼがあり、川が流れていた、ということだろうと思われます。
マンホール階段、そして小広場、道。
すべてが川があったことを示している、と結論付けたいと思います。
つまり、南大穴川はこの小広場から始まっていたと推察します。
以上、目で見た現状、および過去の地図と航空写真から導き出した、大穴川、南大穴川の源流考察、
加えて大穴地名発祥の地についての考察
とします。
信じるか信じないかはあなた次第です。
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コメント
こんにちは。すっかりキレイになった木戸川について検索してたら、辿り着きました。
大穴在住民です。
元々の住民ではなく、50年弱となります。
大穴南?川については、スタートというか源点はどこかですが、滝不動から来た五十番ラーメンのある交差点下が怪しげですね。
源点こそ不明ですが、大穴小の下の暗渠は正しく川です。
じつは大穴小の校歌に「花咲く堤」という歌詞があるんですが、まさしく今は桜の堤、崖下が川だった証しです。
あと現ファミマのところは以前は斎藤石油という日石スタンドだったのですが、その裏のアパートに知り合いが住んでいた際「湿気が酷かった」と言っていました。
今見ても交差点よりは高台だし、建物も混み合っていず。
湿気?と思ったんですが、案外、昔は湧水があったのかもしれないです。
湧水は私自身も子供の頃、大穴にはちょこちょこありまして。
大穴中の体育館脇のクランク横も中学造成工事前は湧水がありました。
あと今、大穴近隣公園?造成中ですが、その隣の梨畑脇も湧水があり、そこは小川になって住宅地手前でマンホールに落ち、恐らく木戸川に合流しているんでしょう。
私は小学生の頃、この小川で遊んでいます。
その後、今の暗渠に変わってしまいましたが。
大穴マユミさん、こんにちは。
大穴小の校歌の情報、ありがとうございます!
「花咲く堤」学校建設当時には「堤」として作ったんでしょうね。
中華五十番から滝不動駅までの道は緩やかな傾斜があるので、かつては道端に小さな流れがあったようにも見えます。
なかったとしてもそこに降り注いだ雨水は大穴小のほうへと流れ、いつしか川になっていったと考えられます。
それに加えて湧水があったなら、十分な水量になることでしょう。
大穴マユミさんの子供の頃の記憶がそれを裏付けるように、かつてはもっとたくさんの湧水が露出していたんですから。
ファミマの近くにはかつて大穴市民プールがありましたね。
こんなところに市営プールを作った理由にしても、もしかしたら湧水と関係するのかも知れないです。
御滝不動尊の池のように、いまでも水量がある湧水もあります。
新京成線より東側にも湧水があっても不思議ではないはず。
木戸川も大穴川も、あまり雨が降らない時期でも常に一定程度の流量があるところをみると、暗渠で隠された湧水はまだまだ活きているものと思われます。
ただそれが見えないのが残念ですね。
大穴の由来ですが、大きな穴があった説もありますが、元々の大穴村は県道の北4、5丁目です。
江戸時代に大穴村の斎藤その女という歌人がいて、すでに大穴という地名が存在します。
大穴南辺りは海老ヶ作という大穴村から分離した人達が住んでいたところ。
海老ヶ作に大穴があったから大穴説は成り立たないかと。
古和釜に小穴という字があり、大穴小穴という関連した、あるいは別れて移り住んだ故の地名とかも考えられると、何かで読んだ覚えがあります。
大穴でいうなら、今の三咲の斎藤酒屋の裏に池、沼がありました。
今は畑になっていますが、他の土地より一段低くなり、弁財天(だったか)祀られています。
側溝か川、沼の名残かも残っています。
また引き続き調べてください。楽しみにしています。
大穴マユミさん、こんにちは。
そっかぁ、大穴南は海老ヶ作でしたね~。
斎藤その女については娘の夏休みの自由研究で調べたことがありました。
確かに墓がある西光院は大穴北でした。
ただ、その女が暮らした大穴村の範囲も明確ではないので、海老ヶ作をも巻き込んでいる可能性は捨てきれないところです。
なにせ貝塚があったくらい古来より暮らしやすい場所ですので。
小穴城跡にしても今は畑ですし、この地域の史料は乏しいので、いまとなってはなかなか特定するのは難しく、もはや「説」の域を出ないのかなと思います。
こんばんは。色々補足ありがとうございます。
私も代々の大穴民ではなく、聞きかじりの聞きかじりで、たいした情報も調べる意欲も無くって、調べたりしていただくのを読むだけでもワクワクします。
地元情報誌のように1〜2ヶ月に一度ポスティングされた「えびがさく(このタイトルもウロ覚え、公民館発行だったか)」に大穴周辺史が掲載されていて、楽しみだったんですが、コロナ禍になってから来なくなって残念なんで、コチラは楽しみです。
で石碑です。
大穴のメインストリートとも言えるさつき台行のバス通り。
すずみ幼稚園やローソンがある通りのローソン近くの梨屋の横に石碑群があるんですが「大穴村からこちらに移り拓く」と刻まれています。
ポケジムにもなっています。
作や津は谷になっている土地という意味ですよね。
海老ヶ作は海老のように曲がった谷があったという意味(だろう、コレも小6の担任の話の記憶です)なので、湧水が多かったんだろうと思っています。
子供の頃遊んだ湧水の小川は本当にきれいでしたよ。
ちなみに私の旧宅の井戸を掘る時に貝殻がたくさん出てきたそうで、海老ヶ作貝塚はもっと広いんだと思います。
大穴マユミさん、こんにちは。
大穴に住む人、いや、ワタクシも含め船橋市のほとんどの人は昭和以降に引っ越してきた人ばかりですから、みんな聞きかじりで問題なしです。
それでも子供の頃にきれいな川があったなどの記憶をお持ちですので、もはやこの土地の人だと思います。
ポケジムなつかしいです。いっときはまってました。
津は船着き場の意味が転じて水辺を意味するワードですが、作は田畑を意味するワードですので、必ずしも低い土地とは限らないようです。
海老ヶ作に関しては、海老のように曲がりくねった谷(南大穴川のことですね!)に囲まれた田畑を表していますので、大穴小から大穴中までのローソン・幼稚園・石碑や大穴近隣公園・伊藤楽器を中心としたどちらかというと小高いエリアのことを指しているんだと思います。
江戸時代から昭和初期までは、そこには梨や葡萄などの畑が拡がり小川の湧水があったはずですが、宅地化の邪魔だったんでしょうか、マンホールの下に隠されてしまった、ということかと思われます。
もっと遡ると、そこは貝塚。
現在川になっている場所には海水が入り込んで、大穴新谷津公園あたりは入江になっていて、縄文人が貝や魚を捕り、土器に湧水を入れて煮たりしていた。
となれは、ワタクシの住む松が丘だって対岸ですから、松が丘2丁目緑地から高根台団地あたりが入江で貝や魚がザックザクだったはずなんですが、、、潰されたかなぁ。